(旧 たびかけ記事)

(京都|銀閣寺)謎の多い銀閣寺とその庭



銀閣寺という名称で知られる東山慈照寺(とうざんじしょうじ)、相国寺の塔頭寺院の一つである。宗派としては臨済宗相国寺派。

ちなみに銀閣と言った場合には慈照寺の観音殿のことを指す。


今出川通りの東の端、大文字で有名な如意ケ嶽のふもとにある。

もともとは足利義政が晩年、別荘として建てていた東山山荘であり、のちに寺院となった。


足利義政といえば、室町幕府八代将軍であり、自身の跡継ぎをめぐる争いに恐妻として知られる日野富子と有力大名の覇権争いが絡み、起こった応仁の乱が有名である。


京都の寺社仏閣の説明書きで、よく「応仁の乱で焼失」という文句を見かけるが、市内全域が焼け野原になるような悲惨な争いだったようだ。


銀閣寺橋を渡り、店が立ち並ぶにぎやかな参道を抜けると見えてくる総門。




総門をくぐると90度右へ。

生垣、竹垣、石垣で構成された銀閣寺垣といわれる独特の垣根が続く導入部である。

もちろん、当時は防衛的な役割も担っていたのだろう。




突き当りには受付があり、そこで参拝料を払う。

そして中門をくぐるとすぐ右手に朱印所がある。

ご朱印をいただくのであれば、ここで先にご朱印帳を渡しておこう。


この庫裡(くり)の前のあたりにも枯山水の庭が広がっているので、拝見。




道なりに進むと見えてくるのがプリン……ではなく向月台である。

この向月台の由来は、実は分かっておらず謎である。

てっぺん部分が丸くくぼんでいるそうだが、そこが銀閣の2階からみたときに月のように見えるからだとか、白砂で庭全体を明るく照らしているからだとか言われているそうだ。




そして視線を少し右へ移すと、見えるのが銀閣である。

正式名称は観音殿といい、中には観音様がいらっしゃるそうだ。

中は非公開なので、本やテレビで拝見するくらいでしか見られない。

銀閣の名前の由来は、昔は銀箔が貼られていたのではとも言われていたが、改修の際に調査されて、銀の成分は出なかったそうだ。


銀閣の由来には諸説あるが二つほど紹介しよう。

ひとつは単純に西の金閣と対比されて銀閣と言うようになったという説。

もう一つは、2階部分は創建当初、内側も外側も黒漆が塗られていた。黒漆は紫外線に弱いため外側の黒漆が劣化して下地の白色が現れて真っ白に見えていた時期があるかもしれない。その白い部分に光が反射して銀色に見えていたのではないかという説。


結局は、なぜ銀閣と言うのかは謎である。

さらに右へと歩を進めると、そこには八幡社があり、八幡様が祀られている。

こちら側はここで行き止まりなので、反対側に歩いていくとそこに広がるのは銀沙灘。

本堂前あたりからは銀沙灘、向月台、銀閣というちょっと贅沢な眺め。

本堂に座り庭を見た時に拝める眺めと同じなので、ぜひ一見を。

銀沙灘は中国の西湖をイメージしていると言われ、白川砂が使われており、本堂を照らすレフ板の働きもあるそうだ。

向月台も銀沙灘も義政の時代にはなく、江戸時代につくられたという。


ここから今回の目的、特別拝観「東山文化の原点 国宝東求堂」で、本堂や東求堂の中に入ったので、そのことを書こうと思ったが、一般参拝できる部分だけでもかなりの量になりそうなので、特別拝観に関しては次回書こうと思う。(こちら → (京都|銀閣寺)「東山文化の原点 国宝東求堂」に行ってきた


銀沙灘にそって歩いていくと本堂(方丈)の前を通り、東求堂の外観を見ることができる。東求堂の前には錦鏡池に浮かぶ八鶴島がある。

写真ではわかりにくいが、島にかかる橋が広げた翼……なのだと思う。


竜背橋を渡り道なりに左へとすすんでいくと、弁財天を祀る社がある。

説明などもなくひっそりとした感じだが、個人的に弁天さんは好きな神様なので、しっかりとお参り。




少し戻って進むと、お茶の井がある。

義政がお茶をたてるときに使っていた湧き水である。

現在もお茶会などのときには利用されているという。


このお茶の井の右側に広がっている荒涼としており、岩が崩れたような庭。

ここは義政公が組んだ枯山水の庭の跡が、そのままの形で残っているという。

ここは、以前テレビでみて知っていただけでとくに説明はなかったので、知らないと素通りするだろう。


個人的には良さがいまいちわからないが、当時のまま残っているのは貴重だし、これを眺めながら義政公がどんなことを考えていたのか思いを馳せるのもいいかもしれない。


さらに奥へと進んでいくと、どんどんと山を登っていく。

そして広がるのは上から見下ろす銀閣寺の庭と京の街並みである。

応仁の乱ではこの街並みが焼け野原だったのだから、義政公も思うところはあっただろう。




山から下りてくると、錦鏡池越しに銀閣が現れる。

なんとも立派な佇まいである。

義政公の時代から残る建物は東求堂とこの銀閣だけなのだという。

そして義政公はこの銀閣が完成する前に死んでしまったので、義政公が見ていたもので今見られるのは東求堂だけということになる。


銀閣の中には観音様がおさめられていると書いたが、この観音様も誰がなんのために置いたものか謎だという。

本当に謎の多いお寺である。


あとは歩いていくと圓通殿という売店があり、はじめにあったご朱印所へと戻ってくる。



もちろん、ご朱印もいただいた。

今回は詳しく記さなかったが、銀閣の庭は池泉回遊式庭園と呼ばれるもので、竜背橋で東西に二分され、東求堂の前には白鶴島、銀閣の前には仙人洲がある。

銀閣の世懇意は諸侯石というものもあり、このあたりを調べて、池を中心に銀閣寺を見て回るのも楽しみ方の一つかもしれない。

最寄り駅:出町柳(徒歩30分)

バス停:市バス 銀閣寺道(徒歩6分)

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