(旧 たびかけ記事)

(京都|大雲院 祇園閣)祇園祭の山鉾イメージ、銅閣寺

大雲院は円山公園のしだれ桜の前から清水寺の方へ歩いていくとすぐの場所にある。

ねねの道にさしかかる前に見えてくる高い塔がある場所である。

その塔こそ祇園閣(登録有形文化財)と呼ばれ、銅板葺きの屋根を有する銅閣寺と言われるゆえんである。

普段は非公開だが、いまは「第42回 京の夏の旅 文化財特別公開」で公開されている。

パンフレットによると、大雲院は天正15年(1587年)、正親町天皇の勅命により織田信長・信忠の菩提を弔うために、貞安上人を開山とし御池御所(烏丸二条南)を賜り、織田父子の碑を建てて追善供養したのが始まりのようだ。

大雲院という名前は信忠の法名大雲院殿三品羽林仙巌大居士に因んで名づけられている。

その後、豊臣秀吉の命により天正18年(1590年)、寺町四条に場所を移した。

さらに時を経て、昭和の時代、周辺が商業繁華の中心となったため、昭和48年(1973)現在の地へと移転された。

拝観料を払い、中に入ると順路通り右へ。

進んでいくと見えてくるのは鐘楼とその横の石碑。

石碑には「佐土原藩戦没招魂塚」と「豊烈曜後之碑」の文字が。

鐘楼の説明を読むと、島津家が士の菩提を弔うため大雲院に寄進したものだそうである。

詳しいことはよく知らないのだが、貞安上人は日向国佐土原藩の初代藩主の島津以久(しまづもちひさ)と関係があったようだ。

石碑は戊辰戦争で亡くなった藩士を弔うためのもののようである。

そして、振り返ると平和観音がこちらを見ていた。

さらに鐘楼の横には弁天社もある。

またここにはりっぱな総門も見られる。

東京から移築されたもので、旧宮家の門と伝えられているそうだ。

ちなみに入ってきた南門は四条寺町から移築されたもの。

総門の正面には本堂がある。

階段をあがって左手には涅槃像も。

本堂のなかは撮影禁止のため写真はないが、中には本尊の阿弥陀如来坐像が安置されており、また周囲には五百羅漢と釈迦三尊の画もかけてあり、なかなか圧巻でだった。

本堂の裏側へ回るといよいよ祇園閣が目の前に現れる。

現在大雲院がある地は、もともと大倉喜八郎(大倉財閥の創始者)が建てた別邸の一部である。

喜八郎が金閣、銀閣に次ぐ銅閣をつくりたいということで、伊東忠太に設計を依頼。

伊東忠太は奈良の橿原神宮や京都の平安神宮、東京の明治神宮などを設計した人物である。

喜八郎は銅閣として傘をひっくり返したようなものというイメージで依頼したそうだが、断られ、祇園祭の山鉾を模した現在の形のものを設計したそうだ。

それでも銅閣への思いを捨てきれず銅板葺きの屋根となっている。

高さは36メートルあるそうだ。

ちなみに祇園閣のてっぺんにいるのは鳳凰ではなく鶴である。

これは喜八郎幼名の鶴吉や号の鶴彦あるいは後年の鶴翁など、喜八郎の名前に由来する。

また戒名にも「鶴」が入っている。

祇園閣の入り口前の阿吽のライオン像。

顔がユーモラスでかわいい。

内部は敦煌・莫高窟壁画の模写が描かれておりとても美しい。

残念ながら塔内部および塔からの眺望は写真撮影禁止のため写真はない。

壁画や天井がを見ながら階段を上っていくと一番上にはかなり急な階段が。

だがここの天井にも干支のレリーフがあり、とても素敵である。

そして最上階から外へ出ると、さえぎるものもなくなかなかの見晴らしである。

写真を写せないのが残念。

祇園閣からでて、これで終わりかと思ったのだが、見どころはまだある。

織田父子の墓と石川五右衛門の墓も見ることができる。

いわゆる普通の墓地なので、騒がず手を合わせてきた。

織田父子の墓の写真は見事に逆光で見にくい写真になってしまった。

最後にご朱印をいただき大雲院をあとにした。

祇園閣はこれまで毎年というわけではなく、数年に一度しか特別公開していないので、見られるときに見ておかないと次いつ見られるかわからない。(今後どうなるかはわからないが)

なので興味のある人は是非この機械にどうぞ。

●第42回 京の夏の旅 文化財特別公開

大雲院 祇園閣

日程:2017年 7/8(土) ~ 9/30(土)

時間:10:00 ~ 16:00(受付終了)

休み:9/26(火)

料金:一般600円、小学生300円

アクセス:京阪 祇園四条より徒歩15分、阪急 河原町駅出口1より徒歩18分

web site:

(第42回 京の夏の旅)https://www.kyokanko.or.jp/natsu2017/

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